同人雑誌『まんじ』寄稿文書一覧

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132号掲載「箱根市構想」


箱根市構想 東箱根市そして箱根市へ (→pdf でもご覧になれます)

「花を見て怒る人は誰もいない」この言葉を原点にした地域の活性化施策として、四季折々の花による地域おこし「あしがら花紀行」や、花と農業のコラボレーション「フラワーユートピア構想」を立案し、そして実践してきました。
春は春めき(桜)、夏はハナアオイ、秋は酔芙蓉、冬はロウバイなど、四季折々に咲く花のエリアに多くの人々が訪れています。
現在、南足柄市を中心にした花による地域おこし団体「あしがら花紀行ネットワーク」(栗田実会長、20団体、会員約1000名)が開催する花まつりには、年間約10万人以上が訪れているとのことです。
このように、花による集客力は、確実な成果として実証され、花が観光資源になることを多くの人が実感できる状況が生まれています。
花を見た人は、花の美しさに「ワアーきれい」「すばらしい」「来て良かった」など、声を上げ、とても満足されているようです。

昔より「花より団子」という諺があります。

花の美しさや、花の味わいを楽しむより、お腹を満たしてくれる食べ物(団子)に人は魅かれる、人は実益を優先するという比喩として使われています。
まさに、この諺に漏れず、花紀行の花まつりのお客さんも、花見は、程々にして、好みの食べ物や土産を求め、まつり会場内を歩き始めます。
しかし、この団子に相当するお客さんが満足していただくことのできる、地域ならではの食べ物や土産などの「地域ブランド」が不足しているのが現状であり、解決すべき課題であると考えます。

「地域ブランド」づくりは、グローバルな視点から捉えるべきと考えています。
飛行機で海外に出た時、東京、成田、箱根、京都は、ほとんどの国の人が知っている、日本を代表する地名です。次代を担う若い世代が、世界を舞台に活躍するためにも、世界に通用する地名力を活かした「地域ブランド」づくりに、気づくことです。
南足柄市と足柄上郡(開成町、大井町、松田町、山北町)の名称を『箱根』という世界的なネームバリューを持つ、名称に変更する提案です。

南足柄市と箱根町は、明神ヶ岳(標高1,169m)を隔て、この山の東側に南足柄市、西側に箱根町が位置しています。

まずは、南足柄と箱根の歴史的背景を理解するため、その今昔を紹介することにします。

南足柄市塚原方面から望む明神ヶ岳

南足柄と箱根の今昔
 
         
現在の箱根町仙石原地区は、明治22年の3月まで南足柄市や開成町、大井町などの足柄上郡に属しており(明治22年4月1日―町村制の施行により、仙石原村が設立され、所属郡が足柄上郡から足柄下郡に変更された)箱根町とは同じ生活圏、経済圏であった資料が残されています。
その一つに、昭和39年1月15日に発行された『史談あしがら』に掲載された実方正作氏の「足柄上郡仙石原」を、ほぼ原文に近い内容で紹介します。

「足柄上郡仙石原」            実方正作
明治維新の廃藩置県で足柄県に属した当南足柄町地方は、明治の初期上郡行政の中心は、雨坪か関本辺にあったそうだ。東海道線の汽車が松田山北を経て開通するに及び(今は御殿場線)今迄、上郡であった仙石原は下郡に属し上郡の中心は松田に移ったとのことである。
弘西寺、雨坪、福泉等から仙石原に通じる道は明神岳の中腹で関本猿山方面より通ずる道と合して矢倉沢、地蔵堂を右に見て、岳の低い所を仙石原へと抜けた。
明治三十年代迄は、大久保入会地には地元弘西寺、福泉、雨坪、刈野を初め下怒田、まま下、竹松、千津島、円通寺、中ノ名、延沢、吉田島等の者が、夏になるとカイ場の草刈りに小川口橋を渡り弘西寺一の沢、倉見にかけて毎日馬を牽いて往復した。二、三十頭の馬が昼頃干し草を負って帰りの行列をするのは珍しくなかった。それで、カイ場は、年二、三回も刈られるので雑木等はなくあたかもゴルフ場のように綺麗に刈られていた。
当時は、田を作るに化学肥料が無かったので野草を馬の飼料として、そのキュウ肥が主たるものであたから農家は皆、馬を飼って居り、長屋門のある様な大きな家では二頭も飼って居た。又、その馬が運搬等の為(今の自動車の様に)欠くことの出来ぬものであった。
従って、馬の通る道は所謂幹線道路で入会の者達が修理に当たったから仙石原への交通もさして難事ではなかった。或る人は仙石に用事で行った処、急に天気が悪くなり雨が降り出したので家に用意したサツマイモの苗床の蓋をすることを忘れたのに気づき「アラ、苗床の覆いをし損ねた、寒さで傷めては大変だ、詳しい話は何れまた」といって飛んで帰ったという、いかに交通が難しかったか、又サツマイモが大事されたか覗い知れる。
又、当時過燐酸石灰が初めて肥料として売り出されるまでは、大湧谷から硫黄を採って馬や人の背で運びキュウ肥や木の葉、青草等の緑肥と合わせ肥料として用いたので仙石への往来は多かった。
尚、農家の老人は、春先四月頃は、仙石原の湯宿に山越で一週間から二週間位米や味噌、野菜等を持参して湯治に出かけた。
以上、当時、箱根と足柄が一体であった様子が、人々の生活を通して垣間見ることが出来ます。

また、別の資料によると足柄と箱根の生活圏や経済圏、そして、芸術文化まで共有した歴史があることが分かりました。
享保13年(1728年)、徳川吉宗や大岡越前が活躍した時代に『公(きん)時(とき)』と書かれた古文書に小田原藩、炭屋七衛兵が仙石原や宮城野で鉱山(銅の採掘)を開き、一時的な繁栄がなされたとしています。そして、この鉱山の人工(働き手)として、足柄地域の多くの人が明神ヶ岳を越えていったとの事です。
時に、飢饉が発生し、僅かな農地しか持たない箱根の人々は、豊かな足柄地域に身を寄せるため、逆方向から明神ヶ岳を越えてきたとの事です。
しかし、足柄に身を寄せた箱根の人々の多くは、この地に居付くことはなく、再び、明神ヶ岳を越えて箱根へ戻っていった。箱根はそれほどまでに離れがたい土地であり、また、足柄と行き来が出来る距離であったと言えます。このような背景が、現在も、親戚、縁戚になった家が多く残っているゆえんと考えます。

芸術文化面では、平成2年3月30日に発行された『せせらぎ 宮城野の今昔』などに掲載された一文を紹介します。
宮城野村は、明治22年4月1日―町村制の施行により、宮城野村もって足柄下郡宮城野村が成立された。明神ヶ岳頂上に小さなホコラがあるけれども、その所は足柄上郡狩野村に所属しており、その隣接する所が宮城野村であり、古くより人々の往来があったとされます。
そして、このような関係があり、『箱根宮城野ばやしの誕生秘話』にも、足柄上郡狩野村が深く関わることとなります。
大正4年は、明治から大正に改元された即位式の御大典が行われた年であり、宮城野村においても有志の人々から奉祝の話が持ち上がった。そし、新たな屋台を制作するのを機会に、南足柄の人々によって、おはやしの指導を受けることになる。
そして、大正の中頃、狩野村飯沢地区から宮城野に転住した高木又吉氏の力を借り、おはやしの指導者を募り、同氏の知人3名がその任務を引き受け、指導にあたり『箱根宮城野ばやし』が誕生したと記されています。
江戸時代、明治、大正、昭和20年代までは、現在のような車社会でなく、人や馬が通ることの出来る、二本足程度の幅員があれば、通行可能な道として多くの人が利用していたと考えられます。
南足柄から箱根へ通じる明神ヶ岳を越えていく名前のある道は、「道了道」や「久野道」がありますが、車社会以前の時代では、南足柄の三竹、矢佐芝、狩野、道了尊、刈野、地蔵堂など明神ヶ岳に接する地域には、箱根に通じる二本足で行き来が出来る生活道が、それぞれに存在したと想像されます。
以上、足柄と箱根の今昔を紹介しましたが、ここからは、未来に向けての構想を提案します。

○地域ブランドづくり「東箱根オリーブ」

地名力を活かした個人的な動きの一つに、南足柄市でオリーブの栽培に着手し、そのブランド戦略を模索している加藤準一氏(南足柄市岩原在住)との出会いがあります。
加藤氏は、オリーブの販売戦略をどのように立てるかを考えた時、「鎌倉野菜」が浮かんできたとの事でした。
このことは、加藤氏と私が共通して考えていた、地名を活かしたブランドによる販売戦略です。
「鎌倉野菜」とは、鎌倉で生産・販売されている野菜の総称であり、他の地域とは区別された、いわゆるブランド野菜であります。
しかし、鎌倉と言うネームバリューの効果により、テレビや新聞、ネットなどの情報媒体が盛んに取り上げ、その結果、「鎌倉野菜」は、全国的にその名が知れ渡り、今や誰でもが知る存在になっています。
当然のことのように、鎌倉に訪れた観光客は、土産として買い求め、生産が追い付かないほどの人気を呈しています。
南足柄市は、明神ヶ岳や金時山等の箱根外輪山を隔てた箱根町の東側に位置しています。そして、そこで収穫されたオリーブやオイルを「東箱根オリーブ」として売り出し、ブランドとしての一歩を踏み出したいと語られていました。



加藤準一氏 初めてのオリーブの収穫


○地域ブランドづくり「足柄山と金太郎」
「箱根市構想」の実現のためには、足柄という名称に強い思い入れがあるとされる、郷土史家、金太郎の研究の第一人者である内田清氏(南足柄市弘西寺在住)に、加藤準一氏のような地名を活かした「地域ブランド」への理解をいただくことを、最難関ハードルと位置づけました。
当初、私の心の中には、「足柄山があり、金太郎伝説がある」地名を活かすには「足柄山があってこそ、金太郎がある」と一刀両断に、私の提案は拒否されるものと考えていました。
意に反して、内田氏から出た言葉は、「箱根の中に足柄山があり、金太郎が存在する」グローバルに捉えた見方をしてこそ、足柄山も金太郎も世に出ることが出来る。
元来、足柄も箱根も同じ生活、経済、文化圏であったことは間違いない。世界に通用する『箱根』という地名力を活かした提案に賛同すると理解を示されました。
なお、先に記載しました「足柄と箱根の今昔」などについては、内田氏から提供された資料とご本人の歴史分析に基づき書き、記しています。



内田清氏と古屋宅にて

○東箱根そして箱根市へ

2014年、南足柄市の矢倉沢地区と箱根町の仙石原地区に通じる林道が、一般道路の県道(仮称:南箱道路)として、2020年の完成を目途に事業が着手されています。この林道の一般道路化により、南足柄市を初めとした足柄上郡と箱根町とは、僅か30分で往来することが出来ることになります。
箱根町には、年間2000万人の観光客が訪れています。しかし、この観光客をもてなす野菜やフルーツを栽培する農地は、箱根町にはありません。
足柄地域には、これらの野菜やフルーツを栽培する農地は、十分にあります。そして、それらに『箱根』という付加価値を付けたネイミングが「地域ブランド」になると考えます。
その第一段階として、加藤準一氏の提案している「東箱根オリーブ」と同様に、「東箱根野菜」「東箱根フルーツ」として売り出すのです。
農家には、野菜やフルーツの栽培や味についても、その名前にふさわしい農産物の生産を付託します。そして、2000万人の観光客をもてなす食材を、南箱道路を利用して供給するのです。
このように、ブランドづくりと道路などのインフラ整備を進めることで、足柄地域に共通な生活圏、経済圏が創出され、さらに醸成することにより、南足柄市、開成町、大井町、松田町、山北町が一つの自治体になる環境が整うことになります。
そして、市町合併の必要性を説き、『東箱根市』という名称を提示して、地域住民の合意を得ることにします。
第二段階として、箱根町が世界の観光都市、いわゆる、シティに名称変更して、『箱根市』にしたいという機運と、そして、南足柄市などの『東箱根市』が『箱根市』へ名称変更する機運が互いに高まった時に、再度、市町合併をして、世界の『箱根市』にするという二段構えの構想です。

○第一段階の東箱根市にすると

・TV番組などで、開成町の瀬戸屋敷やアジサイまつり、南足柄市の夕日の滝や酔芙蓉農道などが「東箱根」という括りで紹介され、観光客の増加が期待できる。
・東名高速道路・大井・松田インターの名称を例えば「東箱根大井・松田インター」にすれば、2020年に開通予定している、南箱道路へ、ドライバーを誘導する刷り込みができる。
・同じく、小田急線・開成駅や新松田駅の前に東箱根を付ければ、足柄全体が箱根として認識される。
・土地の価格が上がり、定住人口の増加が期待できる。
・国内、国外を問わず、出身地や居住地を「箱根です。」と言える。

○第二段階の箱根市にすると

・足柄地域は、第一段階より、更に増した付加価値が上がる。
・観光客や交流・定住人口の更なる増加が期待できる。
・山、温泉、湖のみならず、平野(農地)、川そして、相模湾(海)まで取り入れたリゾート(観光圏)が、首都80㎞圏内に誕生し、『世界の箱根』の魅力が更にアップする。
・水田や畑などの農地を活かした、例えば「農業体験型箱根」というような新しいスタイルの旅が提供できる。
・加えて、農村などに宿泊する「グリーンツーリズム」などの旅のメニューが広がり、旅の選択肢が増える。
・農ある暮らしを求める都市住民に、農地と空き家やアパートメントをセットにした「クラインガルテン」が提供できる。等など

○最終章
グローバル化が進む現在、海外に通用する『箱根』という地名力を活かしたブランドづくりは、未来志向に立った地域づくりであり、今、この地に生きる者がなすべき、最も重要な地域の活性化施策と考えます。
そして、次世代が故郷で暮らしつつ、海外でも活躍の場を求めることの出来る、環境を創るためにも『箱根市構想』は、慎重に、しかし、着実に形あるものとして実現したい。



大井町篠窪の菜の花畑から望む富士山